「中尉の手伝いで遅くなっちゃった。兄さん、怒っているかな」
アルフォンス・エルリックは東方司令部の廊下を資料室へと急ぐ。窓の外の景色はすでに夕暮れだ。資料室のドアが半開きになっているのに気づき、そっと中をのぞき込む。
資料室の片隅に青い軍服を着た男が屈みこんでいる。伸ばした手の先には、床で眠り込んでいる赤いコートの子供。
――兄さん……。それに大佐……。
マスタング大佐が兄の顔を見つめてつぶやいていた。
「そうしていると、大変可愛らしいんだがな」
からっぽのはずの鎧の奥で心がチリチリと疼いた。
大佐と出会ってから2年、たまに顔を合わせると兄をからかってばかりいるようだけれど、与えてくれる情報や指示には兄を思うさりげない心遣いがあるのをアルフォンスは知っていた。そして『あいつは嫌いだ』といいながらも、なぜかいつも兄の視線の先には大佐がいた。もっとも兄は自分が大佐の姿を追っていたことなんて、決して認めはしないだろうが。
だから大佐が兄に近づいてくると、アルフォンスはひどく不安になった。そんな独占欲はみっともないと、自分でも分かってはいるのだけれど……。
「鋼の、そんな風に無防備だと、悪い大人にさらわれてしまうよ」
大佐が兄の髪に触れながらささやくのを聞くと、もう耐えられなくなった。部屋に足を踏み入れて声をかけた。
「兄さん」
マスタング大佐が驚いたように振り向く。
「なかなか起きなくてね」
「昔からそうなんです。兄さんってば、寝起き悪くて」
鎧の顔に表情が出なくてよかったと思いながらアルフォンスは答える。もしも生身だったら自分は多分険しい顔つきをしていただろう。
「どうする？ 執務室にでも連れて行くか？」
「大丈夫です、連れて帰ります」
ぐったりと力の抜けた兄の身体を抱き上げる。こんな風に抱えられていることに気づいたら、きっと猛烈に怒るだろうけれど、大佐と兄をこれ以上一緒にいさせるのが嫌だった。
「兄さん、宿に帰るよ」
「う……わぁた……だりぃ」
つぶやいて兄がしがみついてきた。その身体を右手でそっと支える。今の鎧の身体では、柔らかさや暖かさを感じることはできないが、それでも確かに兄の身体はアルフォンスの腕のなかにある。大きな子猫を抱いているようだと思った。
けれど――。
「やあ、鋼の。今お目覚めかい？」
大佐のその一言で、兄は床に下りようと暴れだした。大佐の前で小さな子供のように抱き上げられている自分の姿に気づいたからかもしれない。
「暴れないでよ、兄さん。落ちるよ」
兄は不機嫌にアルフォンスに言葉を返す。
「誰が持ち上げていいといった？」
急に腹が立ってきた。
「兄さんが悪い。眠りこけてて、呼んでも起きないんだから」
あんな風に大佐に触れられていても気がつかなかったくせに。もう少しでさらわれてしまうところだったのに。
大佐だってひどい。余計なことをいわなければ、あのまま兄さんを宿まで連れて帰れたのに。
意地の悪い気分で、わざとさっき聞いた言葉を繰り返す。兄ではない、もうひとりに聞かせるために。
「そんな風に無防備だと、誰かにさらわれてしまうよ」
大佐の笑みが、かすかに引きつったような気がした。ほんの少しだけ胸がすく。
「アル……お・ろ・せ！」
本気の怒りを含んだ声に、アルフォンスは仕方なく兄を降ろした。
「帰る」
脱げかけたコートを羽織り直して、兄は不機嫌にひとこと告げると部屋を出て行った。その姿を大佐がじっとみつめている。
その視線の先に割り込むように移動して、ゆっくりと挨拶をした。それから兄のあとを追う。大佐の視線から兄の姿を遮るようにして。
――これ以上あなたに兄さんを見せてなんてあげない。
それが今のアルフォンスにできる、ささやかな抵抗だった。
End
<<ロイ背景素材はHANGED MANからお借りしました。