「アル、アルフォンス、大丈夫か？」
懐かしい呼び声がした。
身体がひどくだるく重い。熱もあるようだ。
うっすらと目を開くと、耳の下で金髪を切りそろえた兄の顔が覗き込んでいた。
――良かった。全部夢だったんだ。
まず最初にそう思った。熱に浮かされて、自分は厭な怖い夢を見ていたのだ。
「いやな夢、見ちゃった。化け物がでてきて、母さんが……死んじゃって、兄さんがいなくなって」
熱のせいか、声がおかしい。
「ボクはひとりぼっちになって……すごく怖かった。夢でよかった」
そういって笑うと、兄は泣きそうな目で自分を見つめた。
「アル……それは夢じゃない。夢なのは……今だ。オレは……幽霊さ」
静かな声で兄が言った。
「おまえの家族は事故で死んだ。でも、おまえはひとりじゃないだろ。おまえの周りにはおまえを愛してくれる人たちがいるだろ。だから、お前は生きて、幸せに暮すんだ。オレや母さんの分も」
小さな子供の手がアルフォンスの髪を撫でる。
「可愛い女の子と恋をして、結婚して、子供を作って、たくさんの孫たちに囲まれて、そうして幸せな一生を終えるんだ」
顔が近づいてきた。乾いた唇に濡れた柔らかな唇が押し付けられた。僅かな痛みと血の味がした。
「な……に？」
「薬だよ。すぐに熱は下がる」
そういって赤い唇を舐める兄の口から鋭い犬歯が覗いた。金色の瞳が妖しく光る。アルフォンスと同じ金色の虹彩。だがその中心の瞳は黒ではなく紅玉の赤。
アルフォンスの中で警報が鳴り、思わず兄の身体を押しのけた。
兄のシャツの胸元がはだけた。白い肌の上にくっきりと、焼印のような文様が浮かんでいる。その文様に、アルフォンスは見覚えがあった。吸血鬼避けの護符に刻まれた……。
その護符を首にかけてやった人形のような美しい少女の面影が、目の前の少年の顔に重なった。
「エディス？ ……いや、おまえは誰だ？」
十年前の兄の姿をした少年は、異形の雰囲気をまとわりつかせながら、黙って悲しげに笑った。
ふいに、アルフォンスはすべてを悟る。
「兄さんは……やつらの仲間になったの？」
答えはない。だが否定もない。
絶望のあまりアルフォンスの身体から力が抜けた。
「……ごめん、兄さん」
「なんでおまえが謝る？」
「兄さんを……助けられなかった。母さんを守れなかった。ボクだけ助かって……ボクは……」
「ばーか。オレは兄貴なんだから、おまえを守るのは当然なんだ。忘れてしまえ、復讐も贖罪も。忘れて、おまえは幸せに生きるといい」
優しい声は耳元で響いて、アルフォンスをゆるゆると夢の中へと引き込んだ。
闇の中で、赤い甘やかな夢を見た。
ぴちゃりと小さな音を立てて桃色の舌が傷口の血を舐めあげる度に疼くような快感がアルフォンスを襲う。アルフォンスの腹部に顔をうずめていた兄は、視線に気づいたのか、金色の瞳を上目遣いにしてひとこと「あまり見るな」と言った。
「ボクを……仲間にす……るつもり？」
うまく回らぬ頭で、やっとそれだけ尋ねた。
「心配するな。傷を治しているだけだ」
そう言いながらも唇は肌の上を這いまわり、軽く甘噛みしては離れる。
「おまえの血は甘い……薔薇の香りがする」
ぽつりとそう呟く。
「吸いたければ……吸えばいいのに」
「ばかアル。吸血鬼を誘惑してどうする気だ？」
金と紅に彩られた瞳がアルフォンスの顔を覗き込んで微笑った。
自分の上に覆い被さる小さな顔のなめらかなほほに指を滑らせる。そのまま引き寄せて唇を貪る。
「鉄の匂いだよ……。でも兄さんの唇は甘い」
胸元の護符の刻印にそっと触れる。
「エディスは……兄さんだったんだね。痛む？」
「たいしたことはない」
「兄さんだと気が付かないボクを間抜けだと思った？」
「いいや。こっちだって気づかれないように必死だったんだ」
兄が優しく笑みをみせる。
「おまえに会えて……嬉しかったよ」
そうして――。
意識が蕩けていく中でこんな声を聞いた。
「賭けをしよう、アル。これから、何が起こるか教えてやるよ。もしもそれが思い出せたならそのときは、ハンターとしての務めを全うすればいい」
背景素材はSilverry moon lightからお借りしました