汽車から馬車に乗り継いで半日、じっと座っているのにも疲れた。馬車から見えるのは、日暮れの空と森ばかりで、十歳のアルフォンスはひどく心細い気分になる。
「暗くなっちゃったね」
「疲れた？ もう少しだから我慢してね。今日はこの峠を抜けたところで泊まるのよ。明日になったら父さんが迎えにくるはずだから」
アルフォンスのつぶやきに答えて、向かいの席の母が言った。旅行用の服を着て、栗色の髪を結い上げた母は普段よりもずっときれいだ。
「なんで馬車でなきゃ行けないような辺鄙なとこに引っ越さなきゃなんないのさ」
アルフォンスの横で兄のエドワードが口をとがらせる。疲れているのか、ひどく不機嫌だ。
「仕方ないでしょう、父さんの研究のためだもの。でも、家族みんなで暮せるのは嬉しいわ。手紙には薔薇がたくさん咲いているって書いてあったわ。きっときれいなところよ」
そう言って、母は幸せそうに微笑んだ。
「ねぇ、父さんってどんな人」
物心ついたときには旅に出ていた父の姿を、アルフォンスは覚えていない。
「とても頭が良くて優しい人」
母が、はにかんだ笑顔で言う。
「そうじゃなくてどういう顔しているかってことだよ。兄さん、父さんって、どういう人？」
「でかい。金髪。ヒゲ面」
「それだけじゃ分かんないよ」
「オレだってよく覚えてねぇんだよ！」
耳にかかる金髪を揺らして兄が答える。
突然、馬車がガクンと揺れて止まった。
「どうしたの？」
母が御者に問い掛ける。応えはない。母が真剣な顔になる。
「二人ともここで待っていて」
「オレも行く」
母が馬車の扉を開けたとたん、大きな影が飛び込んできた。
灰褐色で尖った耳をした毛のない、人間とも獣ともつかない何か。
「そいつ」は、息を呑むような小さな叫び声をあげた母に襲い掛かり、そのまま覆い被さった。
兄が動いた。
「母さんから離れろっ！」
叫びながら「そいつ」にむしゃぶりつく。だが左腕の一振りで兄は座席に叩きつけられた。
「そいつ」がこちらを向いた。
白目も虹彩もない赤く光る目。
座席に広がる母の栗色の髪。蒼白のほほ。首筋に穿たれた赤黒い穴とそこから流れる血。
すべてがくっきりと見えた。
自分に向かってくる鋭く長い爪の先まで。
恐怖のあまり声も出せずにすくみ上がる。
そのとき。
何かがぶつかってきた。
「アル、逃げろ！」
開いた扉からアルフォンスは馬車の外へと投げ出され、そのまま斜面を転げ落ちた。
最後に目に映ったのは、兄の切り裂かれた肩から迸る鮮血。
＊
いやな夢だった。
アルフォンスが身内の全てを失って一人取り残された日の夢だ。
シャツが寝汗でぐっしょりと濡れていた。
投げ出されたアルフォンスが次に気が付いたときには、なにもかもが終わっていた。馬車から発見された母と御者の遺体はすでに火葬に付されていた。迎えにくるはずの父は現れなかった。そして兄は――見つからなかった。
「やつら」が人を攫うのは珍しいことではない。仲間に加えるため、あるいは食餌にするために「やつら」は人間を攫う。
アルフォンスは拳を堅く握り締める。
もし、あのとき、自分がもっと素早く動けたらなら、ふたりとも逃げることができたのではないか。
あるいは、馬車から落ちる瞬間に兄の手を掴むことができたなら。
もし、あのとき……。
――余計なことは考えるな。
ぐるぐると巡る思考を断ち切って、アルフォンスは自分に言い聞かせる。
今日はやっかいな仕事が待っている。昨夜の「被害者」に会って、確認しなくてはならないことがあるのだ。
アルフォンスは「被害者」の少女の栗色の髪を思い出す。もう何年も見ていなかった夢を見たのは、彼女の髪が母に似ていたからだろう。
背景素材はSilverry moon lightからお借りしました