ドアを開けたら、もう二度とあの部屋には戻れないだろうと思った。
　俺は、あの部屋が結構気に入ってたんだ。狭くて、たいした物など置いてなくて、散らかっている部屋だけど。
　だから賭けてみることにした。
　いつもやっているように、キスして、混乱させて、謎をかけて、相手の出方を待つ。
　相手がやって来たら、しめたもの。もう、俺の勝ちだ。
　勝率は七割といったところ。悪くない。
　まあ、今までの相手に男はいないかったけどな。

　　　*

　俺はグラスを磨きながら、客を待つ。
　平日のこの時間は俺の勤めるこのバーでもっとも客の入りの少ない時間帯だ。しかも、今日は朝からあいにくの雨で、客足は途絶えている。
　半地下のこの店からは外の様子はわからないが、おそらく外は大雨だろう。予報では夜半にかけて雨は激しくなるという。

――あいつは来るか？

　磨きあげたグラスをひとつ、カウンターに置いて、俺は考える。
　いつもなら、この時間、あいつは店にやってくる。カウンターに座り、いつも同じ酒を注文し、俺と話して、そして帰っていく。
　だが、今日は？
　あんなことがあった後で、しかも大雨で……。

――もし来なかったら？

　俺は磨いたふたつ目のグラスをカウンターに置く。
　もし来なかったら、賭けは俺の負け。おそらく、あいつは二度と店には来ない。そうして、俺も二度とあいつの部屋に行くことはない。

――いいや、来るさ。そのために仕掛けた。謎を解きたくて、あいつは、やって来るに違いないさ。

　不安を押し殺して、俺は三つ目のグラスを置く。

　いつものようにキスで謎かけを……。もっとも、舌まで入れるのは、やり過ぎだ。わかってるさ。本当は何か言われても冗談で済ませられるように、もっと軽いやつで済ますはずだったのに。止まらなかったんだよ。
　仕方ないだろ、止まらなかったんだから。……なんでだよ。

　あいつの気持ちはうすうす気付いてたよ。俺はそういうのに敏いんだ。こういう仕事をしていると、その手の誘いも少なくないしな。
　でもあいつは何も言わないし、俺は男より女のほうが好きだし、だいたいあいつは友達だし、弟みたいなもんだし、そんなことで今の居心地のいい関係を壊したくなかったし……だから気がつかないフリをしてた。
　馬鹿だよな。ずっと気付かないフリをしてればよかったのに、ちょっと牽制しておこうなんて考えて。なんでそんなこと考えたんだろうな。そうして、多分、俺はすこしばかり、やりすぎた。運命の赤い糸で結ばれた女なんて本当はどうでもよかったのに。

　あんな風に怒るなんて思ってなかったんだ。憎まれ口を叩いていても、いつだって最後は仕方がないなという顔で受け入れてくれていたから。ずっとそうさ。昔から。

　いや、一度だけ取り付く島もないくらいよそよそしくなったときがあったな。俺が親元に呼び寄せられて転校するときだ。
　それまでは、同じ学校の寮にいて、ずっと一緒だったんだ。でも転校のことを黙っていたのを怒ったのかどうかは知らないが、俺を避けるようになって、結局最後の日までろくに口も利かないままで、それっきり。
　俺はどうしていいか分からなくて、あいつのことは考えないようにして、そうして本当に忘れてしまった。親に訊けば、近況ぐらいは教えてくれただろうけど、思い出しもしなかった。

　本当に、なんで忘れていたんだろう。

　でも、あいつが店に来た時は嬉しかったよ。９年ぶりだってのに、そんな気は全然しなかった。また前みたいに、つるめるんだと思った。そうして、うまくやってたさ。この間まで。

――でも今日、あいつが来なければ、それも終わりか。９年連絡してこないんだから、次はきっと一生連絡してこないだろうな。

　時計を見る。いつもなら、とっくに奴はカウンターに座っている。でも今日は雨だから……。
　胸の奥につかえる不安の塊を感じながら、四つ目のグラスをカウンターに並べた。

　――で、あいつが来たとして、そのあと、どうするつもりだ？

　五つ目の磨いたグラスをカウンターに置いて、俺は自問する。

――オンナが相手なら落として寝ればいい話。でも、あいつが相手だったら？

　……。

――知るかよ！

　俺はあの部屋を失いたくないだけだ。あの部屋と……あいつを。
　あいつが俺に気があるのは別に構わないんだ。でも、あいつと寝たいわけじゃないし。いや、それが、嫌ってわけでもないんだけどな……。嫌じゃない……と思う……多分。
　できるなら、全部なかったことにして、今までどおりの関係を続けたい。それが一番居心地がいい。
　って、もう無理か……。やり過ぎたし……。気がついていることも、バレただろうし……。
　……なんとか誤魔化せないかな……。

――まあ、いい。奴の出方に合わせるさ。

　やって来たら、何を言うだろう？
　俺を追い出したことへの謝罪か？
　「どいうつもりか？」と、キスへの疑問を口にするか？
　それとも、何もなかった風を装うか？　そんなポーカーフェイス、あいつに出来るのか？
　俺を口説く？　……いや、ないな、それは。

　そして時計は、「いつもの」時間から３０分を経過している。

――やっぱり……来ない……か？

　俺は深く息を吐きながら、六つ目のグラスをカウンターに置く。

　来る、来ない、来る、来ない……なんで俺はグラスで占いみたいなことしているんだろうな。だいたいグラスは偶数個なんだから、シングルの客がなけりゃ、結果は「来ない」に決まってる。そしていまだに、やってくる客はいない。
　本当になんで雨なんだ。爆弾低気圧だと？　くそったれ！

――「来ない」から始めりゃよかったかもな。それとも、いっそ、一つ割っちまうってのはどうかな。そんなに高いもんじゃないんだし。

　自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながら七つ目のグラスを手にとったとき、店のドアが開いた。
　俺は息を止めてドアを見つめる。

――誰だ？　あいつか？　それとも。

　店の入口には見慣れたシルエット。
　しきりに髪と肩口を拭っている。この雨で傘は役に立たなかったらしい。

――ほら見ろ！
――俺の勝ちだ！

　息を吐く。
　口元が自然に緩む。
　だって、そうだろう？
　俺は賭けに勝ったんだから。
　この雨の中、あいつが、やって来たんだから。

　俺はグラスを用意する。
　それからタオルも。濡れた服を拭けるように。
　そして、あいつが席につくのを待つ。

――なあ、お前は、何を言うんだろうな？　謝罪か？　疑問か？　それとも……。