ベリー・ベリー・ケーキ

　初夏の光が差し込む窓辺のソファで無心にページをめくるその人の隣に腰をおろし、その頬にそっと触れる。
「柔らかいね」
　時折こんな風に、再び取り戻した感覚と一番大切な人の存在を確かめたくなることがあるのだ。
「おまえの手も温かいよ、アルフォンス」
　読みさしの本を閉じて答えるその人の右手を両手で包み込む。そして、もはや機械鎧ではない、生身のきゃしゃで小さな右手に口づける。

　この人を失ったと思ったときの絶望をアルフォンスは覚えている。どんな姿でもいいからそばにいて欲しいと願ったあの瞬間を、アルフォンスは忘れない。兄がどんな想いで自分の魂を鎧に定着させたのかをアルフォンスはそのとき理解した。

　今の「兄」はまだ幼さの残る少女の姿をしている。
　辛くないかと尋ねたら
「少し変な気持ちがするけど、すぐに慣れるさ」とこの人は微笑った。
　兄の肉体が失った4年の歳月と少年としての人生は、二人が元の体を取り戻すために行った人体錬成の代価だったのかもしれないけれど、むしろそれは、もう一度幸福な子供時代を取り戻すために与えられたチャンスなのだと思いたかった。
　だから、大人のふりをして歩き続けなければならなかったこの人を、今はうんと甘やかして、時に甘えて……。

　「兄」の蜂蜜色の髪を指で梳いて、なめらかな感触を楽しむ。肩先で切りそろえられてしまっているのが残念だ。
「髪、もっと伸ばせばいいのに」
「長いと面倒なんだよ」
「前は伸ばしていたじゃないか。面倒なら僕が結ってあげる」
「あれは願掛けだったから」
　もう願いは叶ったのだから必要ないんだ、と兄は言う。

――でも本当は髪の毛と一緒にこの人は何かを断ち切りたいのかもしれない。

　そう思うと、ひどく切ない気持ちがした。
　その気持ちのやり場がなくて、細い肩を抱き寄せて、その肩口に顔をうずめる。ふわりと兄の香りがした。

「なんだよ……」
　兄の手がアルフォンスの髪を撫でる。
「いきなりすり寄って来て、猫みたいだな――おまえ」
　もっともこんなでかい猫はいないよな、と笑った吐息に甘い果実の香りが混じる。

「ラズベリーの香りがする」
　アルフォンスのつぶやきに、なぜか兄が口を押さえて、うろたえた。
「あ、いやこれは……」
　その様子で、アルフォンスは香りの正体に思い当たる。
「ケーキ、つまみ食いしたね？　ひどいな、せっかく僕がお茶の時間に一緒に食べようと思って用意したのに」
「ひ、ひとくちだけだよ。あんまり美味そうだったから、上に乗っていたラズベリーをつまんだだけだって」
　必死に言い訳をする姿が可愛くて、かえって構ってやりたくなる。だからアルフォンスは笑いをかみ殺して、わざと疑わしそうな表情を作る。
「本当にそれだけ？」
「それだけだよ」
「美味しかった？」
「あ、うん」
　頷いた顔を引き寄せてキスをする。わずかに開いた唇に舌先を差し込んでまさぐる。口腔に広がるラズベリーの香り。

「……っ、な、なにするんだよ」
「いや、ラズベリーが残ってないかと思ってさ」
「ないよっ、食っちまったんだから」
「本当に？　どこかに隠し持っているんじゃないの？」
　頬を赤らめて見上げる表情に愛しさが募る。
　服の上から指をすべらせ、胸のふくらみの突起で止めた。びくんと兄の身体が反応する。
「見つけた」
「ば、ばか。違うだろ、それはっ」
「違うの？　なら確かめないと」
　キャミソールの紐を肩からずらし、剥き出しになった白い胸に唇を近づける。
「ほら、クリームの上にベリーが乗っている」
　乳房の上の紅い実を舐める。あらがうのを押さえつけて、その実を口に含む。腕の中の小さな身体が跳ねた。抗議の声が甘い嬌声に変わる。

　唇を離し、力をゆるめて表情を覗うと、潤んだ瞳が睨めつけてきた。
「ばかアルフォンス。オレは食べものじゃないぞ」
「でも、お菓子みたいに見えるよ。ものすごく可愛くて美味そうで……食べちゃいたい……。かじりたい」
　そのまま抱きしめて、紅く染まった耳朶を噛む。
　髪に触れ、頬を撫でる。
「蜂蜜とクリーム」
　柔らかな唇に指で触れる。
「ここは、きっとブランデー漬けだね。吸うとくらくらする」
　何度もついばむようにキスをする。
「心配だよ。誰かに盗み食いされやしないかって」
「そんなことする奴はいない」
　拗ねたように答えるのが可笑しい。
「相変わらず自分のことをわかってないね。あなたを欲しがる奴はたくさんいるよ。でも、誰にもあげない。僕が独り占めする」
「……おまえ、性格変わったんじゃないのか？」
「ううん、変わってないよ。ただ、欲しいものを諦めるフリをするのをやめただけ。僕はもう自分に正直に生きることに決めたんだ。」

　なめらかな下肢を撫であげ、指先を濡らす蜜を感じながら、金色の瞳を覗き込む。
「ねぇ……蜜が溢れそうだよ。少しだけ味見したらダメ？」
　短いキスが返ってきた。
「おまえの好きなだけ……取ればいい」
「ありがとう……。本物のケーキは……あとでね」

(2005/06/07)