部屋に戻ると、アルフォンスは買い物袋の中身を取り出し始めた。
「ラズベリー、ブルーベリー、アプリコットにリンゴ、オレンジマーマレイド」
紙袋から色とりどりの小さなジャムのビンを取り出しては、歌うようにラベルを読み上げて、キッチンのテーブルの上に置いていく。
「それからこっちは蜂蜜。知ってる？ 花によって味がちがうんだ。クローバーにラベンダー、レモンにリンデン」
そう言いながら取り出したビンのひとつを掲げてエドワードの顔と見比べながら、アルフォンスが問い掛ける。
「ねえ、この色、すごく綺麗だと思わない？」
「普通の蜂蜜の色だと思うけど……。何か違うのか？」
意味がわからずエドワードが問い返すと、
「兄さんには分からないと思うよ。でもボクにとっては一番綺麗な色」
アルフォンスはいたずらっぽく笑ってビンを置いた。
テーブルの上には一ダース近いジャムと蜂蜜のビンが並べられている。
「店の品、全部買い占めてきたのかよ」
「そんなことないよ。これで三分の一ぐらいかな。やっぱり大きな街の店は品揃えが違うよね」
「そりゃよかったな。でも、んな甘ったるいものばっかりで……」
「そう言うと思った。もちろん、ちゃんと甘くないものも買ってあります。バターにチーズ、スモークサーモン、レバーペースト、ピクルス……」
「わかった、わかったから」
アルフォンスがなおも続けようとしたので、エドワードはお手上げのポーズで制止した。
「お腹が空いてきたからさ、見るもの見るもの欲しくなるんだよね。お腹が空くって、凄いことだよね」
嬉しそうにアルフォンスは言う。なんと答えていいか分からず、エドワードはただ相槌をうつ。
「あ、ああ」
「お腹が空かないと、食べ物が作り物にしか見えないんだ。匂いもしないし。空腹にならないってことは食べる楽しみもないことなんだよね。」
生身に戻れた今だからこそ言える愚痴なのだろう。
そんな風に生きる喜びを失ったまま鎧の身体に閉じ込められていた弟の年月を思うと、今でもエドワードの胸は痛む。
「欠けたものが満たされるからこそ、幸せなんだ。欠けたものがない完全な存在は、きっと幸せを感じることもないんだよ。……兄さん？」
アルフォンスが覗きこむ。
「あ、いや何でもない」
「でもさ、食べられなくても兄さんが食べるのを見てるのは楽しかったよ。なんでも美味しそうに食べるもの」
エドワードが黙った理由を察したのだろう、アルフォンスはそういって話題変えた。
「おまえがそうしろって言ったんじゃないか」
「そうだっけ？」
「そうだよ」
食べることができないアルフォンスの前で食事をすることをためらうエドワードに、アルフォンスは言ったのだ。
『ボクに遠慮しないで食べてよ。兄さんが美味しそうに食べてくれたら、ボクにもそれが美味しいものだってことが分かるんだから』
「だからなるべくうまそうに食うようにしてた」
「そうなんだ」
「でも、どうやってもまずいもんもあったな。牛乳とか牛乳とか牛乳とか」
「でも飲むようになったじゃない、牛乳も。最近は、また飲まなくなったみたいだけど」
「あれはおまえに……」
「ボクに？」
「……いや何でもない」
エドワードはそのまま黙ったが、アルフォンスは何もかも承知しているといった風に微笑んだ。
「ありがとう、ボクのために無理して飲んでくれて。おかげでボクの骨は丈夫だよ。でも、ちゃんと自分のためにも飲まないと、大きくなれないよ」
「それこそ大きなお世話だ」
軽く殴りかかろうとするエドワードの拳を避けると、アルフォンスは袋の中から金褐色の中身の入ったビンを取り出した。
「ねえ、兄さん、これ覚えてる？」
「なんだ？ また蜂蜜か？」
「違う、メープルシロップだよ」
「メープル……って何だっけ？」
「ボクたちが開けるのに失敗して、食べ損ねたアレだよ」
「ああ……」
エドワードはそのときのことを思い出して苦笑する。
☆
どんな香りと味なのか、ただ知りたかっただけなのだ。
黒いラベルのついたビンに入った金褐色の蜜は、北部の山のさらに向こうの国からの土産物だった。
『珍しいものなの。樹から採れる蜜なのよ。甘くて美味しいの』
子供のように嬉しそうに母はいった。
パンケーキを焼いて、あとで一緒に食べましょう、と。
その「あとで」が待てなかったのだ。
フタを開けてほんの一口舐めてみて、元に戻しておけば分からないさ、とエドワードは提案した。
そうだね、とアルフォンスも賛成した。
だが、固く締まったビンのフタは七歳と六歳の子供の手では開けられるものではなくて……。
道具を使えばいいのだと、エドワードは思いついた。
たとえばピナコばっちゃんの家にあるようなネジのついたレンチとか。
家にあった道具ではビンの大きさに合わなかったから錬金術で錬成し直した。
万力のような不恰好な道具でフタを挟んでアルフォンスに持たせて、ガラスビンを力いっぱい回す。
「くぅぅ……」
ぽんっという音がしてフタが緩んだ。
「おっ！」
「やった！」
けれど。
横にしたビンの口から金褐色の液体が流れ出し――。
それを止めようとしたとたん、ビンを掴んでいた手がすべって――。
落ちると思ったけれども止めようもなく――。
滴る蜜と一緒にピンは落下し――。
ガシャンという音と一緒に蜜とガラスが飛び散り――。
床の上に。
半分だけ形をとどめたガラスビンが金褐色の液の中にひたっていた。
呆然とそれを眺めていた。
背中がすぅっと冷たくなった。
お母さんだって楽しみにしてたのに。
なんとかしようとスプーンですくった蜜の中にはガラスの破片が混じっていた。
錬金術でガラスと蜜とを分離させてビンを元に戻すことはできるかもしれないが、そんなものを食べて大丈夫なものかエドワードには自信がなかった。
泣きたい気持ちでアルフォンスを見れば、既に弟の顔はゆがんでいた。
「シロップ……どうしよう……お母さんが食べようって……食べ……えっ……えっ……メープル……」
アルフォンスが泣き出した。
涙が溢れてほっぺたを伝う。
そのとき、アルフォンスが持ったままのフタにほんの少しだけ蜜がついているのに気が付いた。それをふき取った指を弟の口元に突き出す。
「ほら、メープルシロップだ」
「……うん」
しゃくりあげながらもアルフォンスは蜜のついた指先を舐めた。
「どうだ？」
「……甘い……けど、しょっぱい」
「しょっぱいのは、おまえが泣いてるからだ」
エドワードもフタに残ったわずかな蜜を舐めた。
それは甘かったけれど……どこか苦かった。
背景は写真素材茶房 cafe trial の素材を加工して使用しています。