「じゃあ兄さん、ここでおとなしく待っててね」
ベンチに腰を下ろした兄の頭に乗せた手は、すぐに払われた。
ちょっと惜しい、とアルフォンスは思う。
「おとなしくって、オレは犬か？ ガキか？」
不服そうに言う兄に手を振りながら、アルフォンスは心の中でつぶやく。
――猫だよ、猫。放っておくとどこかへ行ってしまいそうだから、心配なんじゃないか。
*
店の扉を開けると焼きたてのパンの香りがした。
幸せな香りだ。
店の隅で売られているパンを見ながら、あとで買って帰ろうと決心する。
アルフォンスがこの店に来た本来の目的はジャムだ。
かつて母が庭先の果実で作ってくれたようなものから、東部の街ではめったに手に入らない珍しい銘柄のジャムまで、色とりどりのラベルのついたビンが棚に並べられている。
何種類か選んでは買い物カゴに入れていると、
「贈り物ですか？」と、声をかけられた。
振り返ると店員がにこやかに立っていた。
多分、ひとりで店にやってきた少年が珍しかったということなのだろう。
「いえ、どちらかといえばコレクション」
アルフォンスは答える。
愛らしいビンをいくつも集めるのが好きなのだ。
もっともそれだけでなく、六年間記憶の中で反芻するだけだった「味覚」を確認するという意味もあるのだが。
「よろしければ、蜂蜜もいかがです？ 味見もできますよ」
店員はカウンターの上に濃い褐色から透明に近い金色まで様々な色合いの蜂蜜のビンを並べてみせた。
「うちではハーブハニーがよく売れるんですよ。ラベンダーにローズマリー、ミント」
舐めてみるとたしかにハーブの香りがする。
褐色でクセのある個性的な味の蜜はソバの花、クセがなくて馴染みのある味の蜜はクローバーだと教えられた。
中にひとつ不思議に心惹かれる色合いのビンがあった。
「これは？」
「リンデンです。さっぱりとして、ほんのりと樹の香りがしますよ」
聞き覚えのない名なのに、なぜこんなに懐かしい気持ちがするのだろうと思い、もう一度ビンを眺めて気がついた。
褐色で
兄の瞳の色なのだ。
アルフォンスは笑みを浮かべながら、リンデンの蜜のビンを買い物カゴの中へと入れた。
会計を済ませようとしたときに、棚の上にもうひとつ別の品を見つけた。
「ああ、それ……」
「珍しいでしょう。輸入品だからなかなか入荷しなくて。最近やっとまた入るようになったんですよ」
ラベルはアルフォンスが覚えているものと同じだ。
「じゃあ、それも下さい」
兄はこれを覚えているだろうか？
*
店を出ると陽は傾いていた。空は蜂蜜の色に染まっている。さっきよりも風が冷たい。荷物を抱えて公園へと急ぐ。
黄色の葉をつけた木々の下のベンチに、赤いコートの兄がぽつねんと座っていた。
所在なさげに公園を眺めている姿は、ひどく頼りなく見える。
ひとりでいるときには、こんな表情もするのか、と思う。
アルフォンスの前でのあの人は、まっすぐ頭をあげて前を見ているか、あるいは、だらけて弛緩しきっているかのどちらかだから。
――あんな顔をさせるぐらいなら、ひとりで待たせておくんじゃなかった。
踏みしめる枯葉の音に気が付いたのだろう、兄が振り向いた。
「ごめんね、遅くなって」
そう言ったアルフォンスの姿を認めて、夕日に照らされたその顔にふわりと笑顔が広がった。
――お願いだから、そんな表情をしないで欲しい。
――そんな蜜のこぼれるような笑顔を見たら……。
本当は抱きしめてあげたいけれど、ここでそんな真似をしたら、この人はきっと怒るだろう。だから抱きしめる代わりにマフラーを解いて、兄の首にそっと巻いてやる。
「寒かったでしょ、マフラー、貸してあげる」
それなのにこの人ときたら、一瞬驚いた顔をしたあと真顔になって、マフラーの端を突き出してこういうのだ。
「寒いんだから……おまえも半分使え」
――本当に……あなたには敵わない。
アルフォンスは心の中でつぶやいた。
「メープル」に続く。
初出：2005.12.29 アルエドテキストアンソロジー[Brothers!!]
背景素材は空を切る、手 からお借りしました。